April 05, 2005

ヨーロッパとイスラーム -共生は可能か- 内藤正典

ヨーロッパとイスラーム -共生は可能か- 内藤正典 岩波新書 2004.08.20
 著者は一橋大学大学院の教授でイスラーム地域研究が専門。非常におもしろい本だった。ドイツ、オランダ、フランスで行われたフィールドワークの結果がまとめられているがその分析はわかりやすい。特にドイツでのトルコからの移民にページが割かれており日本人にとっても身近に考えさせられる問題も多かった。例えばドイツでは国籍に関して血統主義を貫いてきたのだが移民の増加に伴って出生地主義も取り入れるように憲法の改正を行った。移民2世が国民となったわけだ。将来、日本もアジアからの移民を受け入れる可能性があるといわれているが、国籍問題を解決した上で移民を迎えられるだろうか。それ以前に憲法の改正は可能なのだろうか・・・。

 ドイツだけでなく一般的にヨーロッパ諸国の近代化はキリスト教から政治を分離することによって進められてきた。文化的にはキリスト教の影響は強く残っているが、ほとんどの国では教会の支配の脱却こそが近代化であった。憲法は教会の代わりとなる制約事項なのである。政治とキリスト教との分離を聖俗分離とよばれ、国家に関わる公の領域では宗教色を弱め、宗教から中立の立場をとることである。それと関連して世俗主義とよばれるものもあり、これは公的領域をすべて非宗教にすべきであるという考えであり宗教的規範や価値観な個人の範疇に押し留められる。

 さらに興味深いことにイスラーム国家であるトルコでは厳格な世俗主義が広まっており、法体系にはイスラーム法の影響がない。酒を飲んだりイスラームの慣習を守るかは個人の問題となっている。一方で同じイスラーム国家のイランやサウジアラビアは法律自体がイスラーム法の則っているために飲酒は禁止されており、最高指導者は宗教者であったりする。これはイスラーム教がアラブ地域を支配しているのではなく、そこに住む人がイスラーム教を取り入れている証である。

 またフランスの例では個人主義の徹底により差別が隠れてしまうことが取り上げられている。それは「移民は帰れ」、「サッカーのフランス代表はフランス語でラ マルセイエーズを歌いえないのが多い」という差別的内容を含む発言が社会問題と認識されずに個人問題に帰されるということ。フランスは国家制度として差別を認めていないので差別を行うのはその個人の問題であるということ。なるほど、フランスにも独自の問題がある。

 ヨーロッパはまだしも日本人にとってイスラームはかなり遠い存在だと思われる。個人的に2人のイラン人とネットで知り合い、一人には実際に会っているので身近に感じる機会も多い。特にイランは悪の枢軸国と呼ばれているから気になるし。ふと周りの先進国について考えても日本ほど移民を受け入れていない国はないと思う。アメリカは移民の国だし、ヨーロッパには旧植民地からの移民、地続きのアラブからの移民が流入している。日本はどうなるのだろう。この世界有数の閉鎖性と多民族に不慣れな国は移民問題とどのように付き合っていくのだろう。これは十年以内には現実問題となるかもしれないなあ。

 もう1つ記憶に残った箇所があった。それはドイツのイスラーム移民は生活様式においてドイツと同化するように求められる(刺激の強い香辛料は使わない、夜は騒がないなど)一方で、その移民(ドイツ籍を持っていても)をドイツ人(つまりゲルマン系)だとは認めない傾向があるようだ。なるほどドイツ人と同じように振舞うことを求めるが、ドイツ人とはみなさない。この矛盾に移民は戸惑うのだと。これって現在の日本が潜在的に抱えている問題でもある。人間の多様化というものはかなり繊細な問題を含んでいるものです。

今日読み終わりました。新書なので3,4時間で読めます。

Posted by hidk at 11:51 PM | Comments (0) | TrackBack (1)

December 18, 2004

N響アワー(もしくは芸術劇場)とN響

 しばらく前にN響アワー(もしくは芸術劇場)でドヴォルザークの交響曲9番とブラームスの交響曲4番を放送していた。そして先週はブラームスの交響曲第1番。いずれも知っている曲だし、ドヴォ9とブラ4は演奏したことがある。ブラ1はスコアをみながら曲(CDだけど)を聞いた事があったので思わず見てしまった。しかも2chのNHK実況中継を見ながら。

 たしかブラ4がN響の演奏でドヴォ9は外国のオケだった。ブラ4のN響の演奏がへちょいのはテレビでも十分わかったけれどそれに続くドヴォ9がなかなかよい演奏だったので際立ってしまった。2chでのコメントはかなりおもしろい。結構専門的なコメントもあったりして。それにしてもブラ4の3楽章から4楽章へはアタッカで連続していて素敵だった。

 N響、国内では最高だけどたいしたことないな、まあCDを買うこともないけどと思っていたら前回の番組でブラ1の演奏は良かった。指揮者が外国人のビッグネーム(名前忘れたけど)だったので本気をだしたのか?音がそろっていたし、音にテンションとボリュームがあった。さすがはNHK交響楽団ということか。

 久しぶりに演奏している姿を見て、己のヴァイオリンを取り出してみた。音叉を使ってチューニングをした。E線が著しく狂っていたのでビビリながら糸巻きで調整するとバチン!と切れてしまった。久しぶりにチューニングすると切れやすいんだよな。とりあえず古いE線でもう一度チューニング。するとバチン!。またしても。切れてしまったらしょうがない。最後のE線で慎重にチューニング。伸ばして、緩めてを繰り返しながらチューニング完了。左手も右手も動かない。とりあえずボーイングからしなくては・・・。

今読んでいるのは、アガサ クリスティ [スタイルズの怪事件] ポワロ初登場の事件

Posted by hidk at 10:42 AM | Comments (0) | TrackBack (1)

August 08, 2004

呪いに対して

これから先の文は、一つ前のエントリ「呪い」を読んでしまった人だけに読んでほしい文です。いいたいことはそれだけです。

さて、前回のエントリを読んだあなたは好奇心が旺盛ですね。それとも怖い話が好きなのでしょうか。長々と書きましたがあの話はまったくの創作です。そう簡単に呪いなんてあるわけないし、呪われたくもありません。

呪いということをもう少し考えてみましょう。安倍清明もいっているように呪いや呪縛とは関連付けがされているかどうかということ。自分の名前が時に自分自身よりもその人をあらわすことがあるように、実態のないものが意味を持つ。それを利用したのが呪い。

「水の滴る音は、そのひと音が死を少し近づける」
これはまったくのホラ話ですが、あなたは完全にこの話を忘れることはできない。人間は忘却という能力を備えているが、多くの場合自律的にその能力を発揮できない。
「水の滴る音は、そのひと音が死を少し近づける」
読めば読むほど意識に刻まれてしまう。

太陽の下でこの話を思い出すことはないでしょう。
しかし病院で点滴の管を滴り落ちる水滴を見ることはあるでしょう。山里の温泉で夜にふと目を覚ましたときに、わずかに流れる川の音を聞くかもしれません。急に暗い雲に襲われて夕立を雨宿りしているときの水音を聞いたことのある人は多いでしょう。
そうです、そんな時に限って思い出してしまうんですよ。人間の脳は。
「水の滴る音は、そのひと音が死を少し近づける」

水音1つに対して、7秒ほど死期が早まるのだと僕は聞きました。

Posted by hidk at 01:00 AM | Comments (0) | TrackBack (1)

August 07, 2004

呪い

暑い日が続きます。今日は呪いの話。
続く話は読むと生命に何らかの影響がある可能性があるという呪いです。
この呪いを祓う方法を僕は知りませんし、多分ないのでしょう。
怖い話ではないのですが、好きでない人は決して読まないで下さい。
この先を読むという行為は完全な自己責任の元に行ってください。

どうやら僕は呪われた。あなたにもわけてあげましょう

僕は神社へと続く山道を登っていた。舗装はされていないがコンクリートブロックで階段が築かれている。山の頂上付近に稲荷神社がある。そう、京都の伏見稲荷のように登山道は延々と鳥居がたっており、歩いている道は荒縄に白い和紙がついており結界の内側であることがわかる。

日が傾き始めた頃に登りはじめてしまったのを少し後悔するような森だった。先行する人がいるとわかったのは中年男性の整髪料の匂いを感じたから。ここでベトナム戦争の話を思い出した。亜熱帯のジャングルでアメリカ兵にとってもっとも身近な脅威は自然。そう小さな傷でも化膿させると命に関わる。だから清潔が何よりも大切。足を乾かし可能な限り風呂に入る。しかしベトナムに長くいる兵士は風呂で石けんを使わない。ベトコンは石けんの匂いを嗅ぎつけて待ち伏せするからだ。僕は中年男性のおかげでベトコンの気分だった。ということは彼はアメリカの新兵か。ここで殺人があってもそうそうは見つかりまい、そんな妄想をしていると中年夫婦は一人の僕に注意を傾けているのがわかる。若さを自慢しながら、そうそうに抜き去ることにした。


いくつもの鳥居といくつかの小さな社を通り越し、奥の院への最後の鳥居が見えた。最後の鳥居は石でできているなかなか重厚なものだった。ゴールが見えたことと、後ろに中年夫婦の気配がないから安心して休憩を取ろうと思った。
最後の鳥居をくぐった瞬間、声が聞えた。
「水・・お・・そ・し・・け・」
聞えたといっても鼓膜の外から聞えたのではなく、鼓膜の内側、そう耳の内側に直接響く声だった。突然のことで体が止まった。右足は境内に入り左足はまだ最後の階段を踏んでいる。無意識に耳を澄ませると確かな日本語が聞えた。「水の滴る音は、そのひと音が死を少し近づける」

鳥肌が立つのがわかった。

今日は何も聞えない、何も読めない。

Posted by hidk at 11:01 PM | Comments (0) | TrackBack (0)